リムくん、旅に出る

旅とか出かけたこととか発信しています。

合格通知

 こんばんは。嬉しい知らせがあります。4月から慶應文学部第1類通信課程に進学することが決定しました。

 

 おととい、慶應の方から薄っぺらの封筒が届いて合格通知と入学費用の振込用紙、住民票の送付用封筒が入っていました。落ちたんじゃないかと思ったんですが合格通知で少し嬉しかったですね。

 

 思えば自分にとっての学びのスタートはちょうど2005年だったんじゃないかなと思いますね。福知山線の事故や日航機事故から20年の節目など乗り物の事故に関する色々な出来事から事故を無くすこと、救命のこと、そして死について学びたかったと思い13年進んできたのかなって。

 

 まずは専門に入る前にきちんと勉強したいと思い、慶應通信で色々なことを吸収できればなと思います。

 

 春らしいお知らせができて良かったです。■

 

 

春の訪れ

 お久しぶりです。ほんとにサボってしまいました

 

もう4月なんですね。4月からは色々とやりたいことをやっていきますね。

 

フリーターという肩書に加えて大学生という肩書がつくので何とも言えないものがあるのですが...

 

常に忘れずにやっていければなと思いました。

空白感

 気付いたら2月も終わってしまう。3月は別れの季節というけれど寂しさを感じたのは久しぶりだった。今まであんまり別れで寂しさなんか感じなかったし、卒業式で涙を流したことは1回しかなかった。別れが悲しいことよりも新たな未来へ旅立てることに対する期待感や面倒な人間関係から解放できることへの安堵感の方が大きかった。

 

 バイト先で親しかった人が卒業してしまうことで心にぽっかりと穴が空いてしまう感じでちょっと締め付けられている。久しぶりに味わった感じだった。別れってこんなに淡く切ないんだなって、こんなに感じたのがむしろ新鮮な感じもした。

 

 多分こんなこと思うのはまだ心が熟れてないのかもしれないし、新たな人生を歩むためにはこんなことで左右されてはならないという戒めだと思う気持の2つを感じた早春の夜だった。

通信教育課程

 先程慶応通信の受験料を振り込んだ。結果が出ていないので分からないが、合格した暁にはきっちり勉学に励みたいと思う。

 

 正直受験勉強を正しいやり方で実践すれば良かったと後悔をする部分もある。だけど過ぎた時間は戻らないしおそらくこれは自分の人生であってそれを変えることはできなかったのだろうと思う。

 

   与えられた場所で花を咲かす

 

 そんな言葉が少し前に流行ったけど、それはあながち間違ってないなと感じた。■

人には人の学びがある

 最近、芸能人が大学受験に挑戦することが話題になっている。大学に通ったことがなかった人や、あまりレベルの高くない大学を卒業した人に多い傾向がある。このことで話題になっているが、これに対する個人的な疑問点をいくつか挙げたい。

 

 1つ目は学ぶ目的も曖昧で見栄の為の大学受験は無駄なだけだということだ。目指す大学を聞けば誰もが知っている有名なところである。だがその大学が有名なのは何故だろうか。それは創設以来携わった人が理念を掲げて莫大なエネルギーを注いできたことにあるからだ。大学発展の為だけでなく日本の近代化に貢献する人材を育成する為でもある。その中で自分の学びを拡張する意志を持った学生が集まる場所が本来の大学の存在意義ではずだ。彼らの挑戦の意義は把握していないが、本来の目的を達成する意志があるのか些か疑問だ。もし見栄のためにやっているのであれば、意志を持って励む者に失礼ではないだろうし、国公立大学であれば納税者に対しても失礼ではないかと思う。

 

 2つ目には彼らには彼らなりの学び方があることだ。現在ではネット環境が普及しており、学びたいコンテンツはわざわざ大学に通って学ばなくとも入手可能な時代である。もし学位取得を目標とすれば大学の通信課程で学び卒業する方も大勢いる。また、知名度の高さを利用すればコネクションなどを利用して一般の人では体験できないこともできるはずだ。有名な学者との懇談や研究所の訪問など様々な手段を利用し学びを拡張できる。その観点からして大学受験というアプローチが果たして妥当なのかも疑問点が残る。

 

 大学受験に挑戦するということは様々な人に見てもらえ、知名度が上げるのが目的だろう。ただ、知の拡張という観点からすれば別の手段を選ぶ方が良かったという余地がある。芸能人という特別な位置に立つことを生かして彼らなりの学び方を実践し、発信する方が面白いのかもしれない。▪️

思考整理する時間を持つ

久しぶりシフトを空けて人に会いに行った。川越的場のバス停からバスに乗り込んで4時間、新潟へ向かった。バスの中から景色の変化を楽しみながらバスの中で本を読んだり、ブログの記事を書いたりした。

 

忙しい時ほど思考整理する時間が取れなくなる。何がやりたいのかとか今は何をしなければいけないのかとか考えずに目の前は入ったことを先に手をつけてしまう。だからこそ時間を取って自分の向かうべき方向にコマを進ませられるようにする必要があると気付いた。

 

忙しさに身を任せるのはある意味自分を奴隷化させているのと同じだと気付いた。忙しさの中で時間を確保することは工夫を要するが自分の投資と考えれば行動する気になるのかもしれないと感じた。

 

バイトに勤しむことと自分の未来を実現することを両立することを実現したいと思った新潟の旅路であった。■

旅をすること

 旅をすることは自分の観念を破る行為だ。自分の生活圏では体験できないことを旅によって成し遂げられるのだ。昔は旅をすることは命掛けだった。専ら移動手段は歩きで食料と水を確保しながら移動する。今みたいに新幹線や飛行機など便利な移動手段もない。時代によっては宿場町があってそこで宿や食料を確保できた時もあったがそれもごく一部。だから旅というのは常に危険と隣り合わせなのだ。

 

 去年、20歳最期の夏に自転車で銚子まで行ってきた。ランドナーで行ってのでそんなにスピードも出ない。埼玉にある自宅から途中休憩も挟みながら自分のペースでいいからペダルを漕いでいった。途中危ないところや険しいところもあったが九十九里が見え、そしてなんとか銚子の街に辿り着いた。海がないところで育った者にとって海を実際に見ることの喜びは計り知れない。だがそれ以上に自分の力で海に辿り着いた喜びやスマホでは感じ取れないその土地の風土を感じる喜びの方が大きかった。

 

 スマホでいくらでも調べられるし、行こうと思えばいくらでも行ける時代になった。だけどそれは実際に行ってみればスマホで見た時と感じ方が案外一致しないことが分かる。いくらイメージを膨らませたところで行ってみなきゃ分からない。それが旅の醍醐味である。

 

 自転車の旅で気付いたことがもう1つある。それは便利な移動手段によって移動によって生じる感じる情を削いでしまうことだ。より早くより遠くへ移動できる代わりに旅は目的地に行くだけのものへ異質したのかもしれない。世間ではそういう旅を旅行と呼ぶ。

 

 安くて危険の少ない移動手段が台頭し、スマホでいくらでも調べられる時代になった。そんな時代だからこそあえて原始的な道具で移動してみたい。その土地の風土を感じることも旅の楽しみであるから。■