リムくん、旅に出る

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震災に想うこと

 2011.3.11ー
 
 先の震災から丸8年が経つ。当時中学生だった筆者も成人を過ぎた。8年は長いようであっという間だったなと感じる。そのような感覚で10年、20年…そして歴史上の1つの大きな出来事へと変化していくのではないだろうか。本来はそのようなことはあってはならないことだが、人は忘れる生き物である。だからこればかりはどうしようもないことではないだろうか。それが現実だのだろう。
 
 久しぶりに宇都宮を訪れたが、街では震災に関するイベントが行われていた。ステージでは涙を流しなら登壇者が感じたことを発表していたり、街頭では高校生がイベントに参加するように呼びかけていたりしていた。何も感じることはなかった訳では無いが、筆者イベントを横目にただただ素通りしてしまったが。

 震災について色々な人が色々なことを想うことであろう。筆者は当時栃木県の小山に住んでおり、自分の身の回りでは家が倒壊するとか人が死ぬとかなどの大きな被害はなかった。だけど震災の直後から停電になり、暗くなったらすぐに寝てしまったことを今でも覚えている。九州や外国にいる親戚からの連絡があって、気仙沼が火の海になっていることもそこで知った。想像でしかなかった津波の被害。翌日の朝刊で凄惨な被災地の状況を知った。
 
 確かに被災者といえばそうではあるが、家族や友人が死んだとか家や街がメチャメチャになったとかと比べれれば被災者と当たると言えないのではないかと思う。だからここで書くことはどうしても第三者的な主張でしかないことを予め断りをいれておく。

 筆者はよく災害だけでなく人が命を落とすことについて考えてきた。というよりも結構幼い頃から考えてきた。どうして考えるようになったのかという話は割愛するが、両親の影響が大きかったと思う。
 
 とにかく例え今がどんなに健康で体力があったとしても明日生きてるかどうかなんて日本人はあまり思わないだろう。よっぽど死が差し迫っている場合以外は死について考えないのが普通である。

 1人の若者として人の死のことや地域社会の崩壊のことについて感じたのが震災であった。震災以降様々な災害が各地を襲っているが、筆者としてこのような災害は人間への警告だと考えている。

 

 災害はない方がいいに決まっている。だけど、災害があるからこそ人間は本当に大事なことは何かということを改めて知ることができるのではないかと筆者は考える。死を感じるから目の前のことに一生懸命になって生きたり、身の回りの人を大切にできたりするのではないだろうか。

  災害に対してただネガティブな受け止め方をするだけではなく、復興に向けて歩み出す人の姿が映し出される。でもこれが本来の人間の営みではないだろうか。悲しんでも前には進まない。むしろ大切な人の生を生かすためにも遺された人が懸命に前に進むのが遺された人の使命なのではないだろうか。■